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2019年10月15日

第三回街歩き 代田橋

日時:2019年10月5日(土)14時00分〜16時00分、晴れ

 台風明けの秋晴れの2019年10月5日(土)に第3回街歩きを行いました。場所は代田橋エリアで参加者は7名。今回は東京の西側の境界。代田橋は環状7号線近くで古い木造住宅が残る木賃ベルトに含まれ、南側が世田谷区、北側が杉並区、東側が渋谷区の3区の境界に位置します。また京王線新宿駅から2駅という好立地にもかかわらず、水道道路沿いに昭和30〜40年代の木造住宅や都営住宅が連なり、新旧建物が混在した街並みを形成しています。

 京王線代田橋駅に集合し、街歩きを開始。代田橋駅は世田谷区に位置しています。南口を出ると栄光会南口駅前通りに出ます。その通りは郵便局、商店、飲み屋などの商業店舗と集合住宅が混在する商店街でしたが、土曜日の午後なのに人通りはまばらでした。商店街を抜けたあたりに幅広い道が横切っていました。ここは駅近にある和田堀給水所につながっており、南側には現在国の史跡になっている玉川上水が一部開渠となっていて、そこにはゆずり橋という橋がかかっています。この道は中央分離帯のような緑地が道路を二手に分け、幅広にも関わらず車両侵入ポールが設置されていて車は通行できず、人もあまり通っていないので一見違和感があります。道の先にあるゆずり橋の所で水道管が露出していたので、和田掘給水所から世田谷区への水道管が埋設されていると思われます。


撮影:宮原樹八

 代田橋は水にゆかりがある場所で、かつて駅近くにあった玉川上水新水路にかけられていた橋、「代田橋」の名前が駅名になったと言われています。そしてその代田橋は代田の名前の由来ともなった空想上の巨人「だいたらぼっち」がかけた橋と言われています。和田堀給水所ももともとは杉並区側の和田掘につくる計画でしたが、土地の高低差の関係で名前は和田堀のまま世田谷側の大原に建設された経緯があります。 またゆずり橋近くに防災用マップとスタンドパイプ設置所が設けられており、この辺りは防災意識が高いように感じました。

 和田掘給水所まで行くと、井の頭通りが給水所を迂回するように通っています。現在給水所は建て替え工事が行われていて、東京都が和田掘給水所内に井の頭通りの付け替えを予定しているため、昭和9年(1934年)完成した円形が特徴的な歴史的建造物である1号配水池が今後建て替えされます。代田橋駅高架計画もあるらしく、南側の風景はここ数年で大きく変化していくものと思われます。


撮影:宮原樹八

 次に京王線の踏切を渡り、線路と甲州街道の間のエリアを散策。和田堀給水所建設にあたり、敷地の一部を提供した大原稲荷神社を見学。ここは1702年以前に創建された神社で、道路に面したシンプルな鳥居が特徴的です。そして代田橋駅北口から甲州街道方面へ。駅のすぐ横には昭和の雰囲気を残したバラック風の古い木造建物があります。1階にカウンターだけの小さな飲み屋などが入っています。飲み屋が軒を連ねる路地のような裏通りは北側の住人が駅へ向かう通路として利用されています。一般的に駅近には戦後の闇市から派生した古いバラックが残り、古い飲み屋街を形成していますが、ここも闇市から残った建物かもしれません。

 ここから甲州街道を歩道橋で渡って、杉並区に入ります。この歩道橋には沖縄タウンの案内板が設置されていました。歩道橋を渡ったすぐ横の脇道に沖縄タウンがありますが、今回は寄り道して沖縄タウン近くにある梵寿綱設計の集合住宅2件、「ラポルタイズミ」と「マインド和亜」を見学しました。「ラポルタイズミ」は壁面の漆喰のレリーフが特徴的な集合住宅です。エントランスにはステンドグラスのトップライトがあり、カラフルな色の光が差し込んでいました。「ラポルタイズミ」からもう少し住宅街を進むと「マインド和亜」がありました。こちらは規模が大きく、中庭のある集合住宅でした。通りに面してオレンジ色や緑色のモザイクタイルの装飾が施されて目を引きました。中庭にも床にはタイルで有機的模様、壁には青色や茶色のレリーフが施され、天井にはトップライトに一部ステンドグラスが使われ、スペイン建築家アントニオ・ガウディを連想させる内装となっていました。


撮影:布野修司

 「マインド和亜」を後にし、水道道路を東へ移動すると、「杉並和泉明店街(沖縄タウン)」にぶつかりました。沖縄タウンの入り口は甲州街道沿いにありますが、今回は寄り道をしたので、沖縄タウンの真ん中から入りました。沖縄タウンの真ん中にはこの商店街の中心施設である「めんそーれ大都市場」があります。この周辺は古い木造住宅が多いエリア、いわゆる木賃ベルトと呼ばれるエリアになります。この市場の建物も木造+トタン仕上げの建物に沖縄の瓦を施したDIY的な外観となっていて、昭和感漂わせていました。中に入ると迷宮のように店舗が入り組んで入居しており、トップライトもあり、新築にはない独特な雰囲気を醸し出していました。ちなみにこの沖縄タウンの各店舗上部にある庇には沖縄伝統的織模様が施され、沖縄タウンの統一模様となっていました。


撮影:宮原樹八

 それから沖縄タウンから東側の環状7号線までのエリアを練り歩きました。まずは水道道路南側の住宅の裏通り。この幅が2m足らずの通りを歩くと、塩ビ管で作られた柵や工事用の単管パイプで作られた花壇などのある木造住宅がいくつかありました。そして通りの地面には水路が暗渠になっているらしく、かなりの数のマンホールが設置されていました。 環状7号線から今度は、水道道路を戻りました。環状7号線から西側の水道道路は幅員が狭くなっています。これはここに戦後すぐバラックが出来たため、水道道路の幅員を狭くせざるを得なかったためだと思われます。現在、水道道路拡張計画があるため建替えが難しくなっており、それが昔の懐かしい風景を残すインセンティブになっています。木造住宅が密集したこのエリアは家の周りを緑の植栽で彩った家が多いです。仮設の単管パイプを組み合わせて緑化したり、バルコニーを自分たちで増築して緑化したりしています。古い木造住宅をDIYでカスタマイズしている家は、通りに対して緑のバッファゾーンを形成していて、環境に配慮した今の住宅にも参照されています。 さらにこのエリアを散策すると木賃アパートがいくつかあり、銭湯もありました。このエリアに風呂なしの木賃アパートのストックがあることがうかがえます。


撮影:宮原樹八

 再び環状7号線に出て、水道道路を東側に歩きました。ここから東側の水道道路の幅員は急に広くなり、南側の道路沿いには小さな細長い公園が続きます。途中、公園を挟んで杉並区と渋谷区の区境があります。水道道路はかつて和泉給水所辺りから西新宿の淀橋浄水場を結んでいた玉川上水新水路で、新水路は人工土手に作られた開渠だったので道路に整備された後も周辺住宅地より地盤が高くなっています。そして住居表示や公園名も杉並区から渋谷区に変わりました。 公園を過ぎると、水道道路の南側に板状の6階建て都営集合住宅が現れました。ここから水道道路沿いに20棟以上の都営住宅が続きます。水道道路を歩いていると、南側は延々と都営住宅の壁になっていて、圧迫感はないものの迫力ある風景をつくっていました。都営住宅の建替え計画もあるようですが、近年は都営住宅単独の建替はほとんどなく水道道路の南側の細長い敷地ゆえに板状になっていて立替が難しいのかもしれません。


撮影:宮原樹八

 そのまま新宿方面へ水道道路を歩いていくと10号通り商店街にあたりました。かつての玉川上水新水路にかかっていた橋はそれぞれ番号がふられていて、水道道路となった現在その橋のところが商店街になっています。10号通り商店街の10号とは10番目の橋を意味します。ここは昔ながらの商店が並ぶこぢんまりとした商店街でした。 今回の街歩きはここで終了です。 代田橋エリアは世田谷区、杉並区、渋谷区の3つの顔を持つエリアで、南側の和田堀給水所や、北側の玉川上水新水路と、水道の歴史とともに歩んできた街です。新水路が水道道路に変わる中で戦後、バラックや都営住宅が建設され、今もその名残が見られる一方で、都道の付け替えや水道道路拡幅計画により、この多様な街並みが失われることが危惧されます。 古家が新しい住宅に建て替わる中、今も現存する多くの古い家屋は、震災時に倒壊や火災を引き起こすのではないかと不安視されていますが、そのコミュニティの歴史をものがたり、その独特の雰囲気が街に魅力を与えている感もあります。全てを一新するのではなく、その場所の歴史を積み重ねてきたものもうまく共存させて、コミュニティの特色を大事にしていけたらと思います。

次回もお楽しみに。


2019年9月7日

第二回街歩き 東陽一丁目 洲崎

日時:2019年7月20日(土)13時30分〜16時00分、曇一時雨

 梅雨空の2019年7月20日(土)に第2回街歩きを行いました。今回の街は東陽一丁目。街歩きの参加者は13名。東陽一丁目は明治から昭和の半ばまで洲崎弁天町という名前の街でした。前回の山谷・吉原エリアが江戸時代の東京の北の境界とすれば、今回の洲崎は東の境界にあたります。明治時代に埋め立てられたこの場所は、根津にあった根津遊郭の代替地として整備され、洲崎弁天町の名で明治から昭和の戦前までは「洲崎遊郭」として、戦後からは赤線地帯「洲崎パラダイス」として昭和の半ばまで色街として栄えました。海に突き出した埋立地に作られた洲崎遊郭は、吉原同様出入りを大門の一箇所で管理され、他のエリアから隔絶されていました。現在、この場所は住宅地になっていて、かつてあった北側の洲崎川と東側の堀も埋め立てられ公園や道路になっています。また、周辺の土地は3m程度嵩上げされ、塀のように東陽一丁目を囲っています。

 まず、地下鉄東西線木場駅から大横川に架かる朱色の新田橋を渡り、洲崎大門跡に向かう途中に江戸時代からこの地にある洲崎神社があります。洲崎弁天町は、昭和42年に住居表示実施で東陽一丁目となり洲崎の地名はなくなりましたが、この洲崎神社や石碑などに名前が残ります。江戸時代、この辺りは押し寄せた高潮で甚大な被害があり、幕府が津波警告の碑「波除碑」を2基建立し居住禁止地区としました。境内には損傷が激しいもののその1基が残っています。

撮影:布野修司

 洲崎神社のすぐ横の道をまっすぐ東陽一丁目へ向かって歩いて行くと、洲崎橋大門跡手前に増改築を繰り返したようなバラック酒場があります。この建物は洲崎パラダイス時代の映画「洲崎パラダイス赤信号」にも出てきた外郭にある飲み屋で、当時のままの姿で残っています。赤線時代の洲崎の境界の一部がそのまま現れています。

 洲崎橋跡に立ち、かつての洲崎大門や洲崎パラダイスのネオンサインのついた大きなアーチに思いをはせると、その先に急に道路幅6車線にも広がる大門通りが目に入ってきます。この通りはかつて遊郭の仲ノ町通り。このメインストリートの両側に引手茶屋が軒を連ねていたために広い幅員となり、現在も交通量が少ないにもかかわらずその幅を保ち、洲崎の街を東西に分断しています。遊郭は東京大空襲で壊滅してしまいましたが、わずか戦後半年で東側半分が色街として復興し、西側は住宅地となりました。大門通りが東西を分断する大きな境界線のように映ります。

 戦後色街として復興した東側を中心に街歩きをしました。もともと遊郭として整備されたため街区は整然とした碁盤目状をしています。現在、ほとんどの建物が住宅やマンションなどに建て替わり、戦後の遊郭建築、通称「カフェー建築」の特徴的な装飾を備えている建物はほとんどありません。それでもわずかに残された当時の木造建築からカフェー建築の名残を見ることができます。まずは大門に程近いところにぽつんと残された木造住宅群。外郭にあったバラック酒場のような雑多感で当時の面影を漂わせています。2つ以上の建物の出入り口や長いバルコニーがあり、カフェー建築だったのでは?と想像してしまいます。

 赤線時代のカフェーは、一般住宅とすぐ見分けられるように警察から「タイルを施した柱」、「アールのついたバルコニー」「バルコニーの凝った手すり」など洋風建築の特徴を建物に備えるように指導されていました。もともと建物には複数のお客を招くため「1階部分の入口が2ヶ所以上」「2階に複数の大きな窓」などの特徴があります。それに加え、建築の意匠部分にも警察からの指導があったところは興味深いです。洋風建築のディテールなどの知識を得るのは難しかった時代、見様見真似で大工さんたちが施工し、独特の意匠が出来上がったのでしょう。

 途中、参加者の1人がこのエリアの住民の女性から話しを聞く機会がありました。その女性曰く、「最近まで「大賀」という遊郭建築が残っていたが、東日本大震災の時に倒壊した。昔、一度中に入ったことがあるが、内装が立派だった。」ことや「「大賀」が壊されて遊郭建築がなくなったらしい」などという話をしてくれました。多くの古い建物は、タイルを施した柱などの装飾的要素もすっかり改修されその痕跡をたどることは難しくなっていましたが、路地には、建て替えを免れ、一般住居に改修された昔カフェーと思われる木造住宅が残っており、カフェー建築のパターンを部分的に発見することができます。塗りつぶされた2階の窓や壁化された複数の出入り口など不自然に改修された部分やR形状のおさまりが当時の名残を感じさせます。

 またこの辺りの代表的なカフェー建築「サンエス(橋本楼)」や「大賀」のある場所にも行ってみましたが、やはり集合住宅や一般住宅に建て替えられていました。当時の歴史を物語る建物がまた消えてしまい残念です。そのまま、南へ歩いていくと、東側最南端に板状の都営アパート群が見えてきます。ここも遊郭時代に、遊女たちの検診を行なっていた警視庁洲崎病院と遊郭の待合茶屋・料理屋・芸妓屋でつくる三業組合の建物が建っていました。今はその痕跡として、敷地の一角に遊女たちの供養碑が残されているくらいです。東側の南端と大門通りを挟んだ西側の南端には汐浜運河に沿って堤防が建ち、その堤防にそって古いバラック住宅が立ち並んでいます。どこもエリアの端まで歩けば壁や堤防にぶち当たり、現在も東陽一丁目は四方を壁で囲まれた街でした。

 遊郭、赤線という歴史的な変遷を経て今は一般住宅地にかわっているかつての洲崎。その地形的な大枠は残されたまま、外周の堀は埋められ、建物が建て替わり、地層のようにその土地の歴史のレイヤーが上書きされていくようです。 色街として一時代を築いた洲崎の境界を探す街歩きでした。

次回もお楽しみに。


2019年6月30日

第一回街歩き 山谷・吉原

日時:2019年6月8日(土)13時30分〜17時00分、曇時々晴れ

 東京がちょうど梅雨入りした2019年6月8日(土)、弊社が主宰する境界研究会の第1回街歩きを行いました。この日の山谷・吉原エリアの街歩きの参加者は13名。この街歩きのテーマは「境界」です。街の歴史的な背景を加味しながら、人々の生活の中に溶け込んでいるその街特有な境界を見て回ります。かつて日雇い労働者と暴動の街として名の知れていた山谷にはどのような境界があるのでしょうか。

 最寄り駅の南千住駅南口を降り立つと、はじめに感じる境界が徒歩で山谷エリアに向かう道の陸橋。東京メトロ南千住駅南側のすぐ横には、広大な敷地を有する貨物専用駅「隅田川駅」があります。この陸橋はそこへつながる貨物専用鉄道線路の上に架けられた跨線橋で泪橋方面へ人を渡します。かつてお堀に囲まれた吉原遊郭の出入り口が大門の1ヶ所で管理されていたように、山谷エリアへの道も1ヶ所のアクセスで管理されているように感じました。

 陸橋を渡って吉野通りを南下すると泪橋交差点が見えてきます。江戸時代、この辺りにあった小塚原処刑場近くには川があり、罪人は橋を渡って処刑場に送られたため、橋は最後の涙を流す別れの場として「泪橋」と名付けられたそうです。今はその川は暗渠化され台東区と荒川区の境となる大きな通りとなり、当時の境界を感じることはありません。交差点の名称「泪橋交差点」や交差点角にあるセブンイレブンの店名に「世界本店」(かつて日雇い労働者で賑わった居酒屋の店名)などかつての山谷を連想させる名称だけが残ります。

 泪橋交差点を過ぎたあたりから通り沿いに簡易宿所の看板が急激に増えてきます。多くの簡易宿所の入口には料金表があり、個室冷暖房付1泊2200円が相場みたいです(2019年6月現在)。ドミトリーはもっと安価です。

 吉野通り沿いにある日本堤交番の角を右折すると、昔、吉原へ続く小道としてにぎわい、漫画「あしたのジョー」をシンボルにした「いろは会商店街」があります。アーケードのある商店街でしたが、老朽化と維持費問題で2017年にアーケードは撤去され、多くの店にはシャッターが下り、かつての賑わいはありません。


撮影:小室昂久

 この商店街のアーケード入口があったところに山谷労働者福祉会館があります。かつて山谷抗争の当事者山谷争議団の事務所やキリスト教系教会などが入ります。現在は寄せ場学会によるシンポジウム等が開催されています。今回の街歩きで知りましたが、布野先生はかつてこの建物の建設に関っていたそうです。布野先生によるとAURA設計工房設計:宮内康氏と山谷の労働者、東洋大布野研究室総出のセルフビルドによる建物だそうです。(詳細は山谷労働者福祉会館運営委員会:寄せ場に開かれた空間を−山谷労働者福祉会館建設の記録,社会評論社,1992年)。確かにこの建物だけは色や形が他とは異なる様相でひときわ存在感があり、今でも商店街の入り口で日雇い労働者の正義を守っているかのようです。 

 日中、山谷の街にあまりひと気はありません。山谷労働者福祉会館を見学中に自転車に乗った山谷地元のおじさんが話しかけてきました。ひと気のない商店街を大人数で歩いているので目立つようです。それはある境界線を越えた時、そこの管理者が出てくるように地元のおじさんたちが声をかけてくる感じです。見えない境界をここでも感じました。

 いろは会商店街通りの横道には今でも簡易宿所が軒を連ねています。中には外国人旅行者向けに新築された簡易宿所もありますが、多くは単身者向けの昔ながらの安価な宿所です。そして、簡易宿所の前には必ずママチャリ系の自転車が十数台並んでいます。普通ホテルや旅館の前には個人所有の自転車は駐輪していません。単身高齢男性の長期宿泊が当たり前の簡易宿所では宿泊者の移動手段として自転車が欠かせないという証です。


撮影:宮原樹八

 いろは会商店街を進むと土手通りに突き当たります。そこには商店街のシンボルであるあしたのジョーの像が設置してありました。アーケードが撤去されていたため、あしたのジョー関連ののぼりやパネルも撤去され、唯一残されたジョーの像も寂しげでした。

 土手通りの向こう側には吉原が広がります。その通り沿いの、東京大空襲で奇跡的に焼け残った歴史的木造建築物として登録有形文化財に指定されている「土手の伊勢谷」と「桜なべ中江」の前を通ります。この2店は吉原遊郭を訪れる客や文化人で繁盛し、現在も客の多くが車やタクシーで乗り付けるような人気店で、山谷の周縁にありながら山谷とは一線を画すところです。ここにも見えない境界があるかのようです。

 道路を渡ったガソリンスタンドの前にある「見返り柳」の脇から、遊郭が表通りから見えないように配慮されたS字カーブの道(五十間道)を進み、吉原エリアに入ります。かつて吉原への出入口は吉原大門のみで、そこへは橋を渡る陸路と山谷堀を船で向かう水路がありました。今でも山谷堀の跡が見られ、吉原の境界の痕跡を感じることができます。大門近くの交番を右折するとかつての堀に位置する、遊郭専門書店「カストリ書房」がひっそりとあります。女性客が多く訪れるそうです。

 吉野通りまで戻り休憩のため、喫茶店「バッハ」を訪れましたが、長蛇の列。1968年に山谷でオープンした老舗のカフェで、オーナーは数々の珈琲関連の書籍を執筆する有名人です。そのため土曜日等は並ばないと入店できない人気店になっています。仕方なくあきらめ、近くにあった「居酒屋アーリ−」で休憩。オーナーがアジア系外国人のカラオケ付居酒屋で、店内には常連と思われる男性客が数名いました。

 一息ついた後、吉野通り東側の玉姫公園へ移動。ここは路上生活者が集まる公園です。東京オリンピックを控え、近くを流れる隅田川沿いにあった路上生活者のテントはすっかり撤去されていましたが、玉姫公園内にはまだ5〜6名の単身高齢男性が自作のブルーシートテントで路上生活を送っていました。カメラを向けると「撮るな」と罵声が飛びましたが、椅子の上に横になりリラックスしている人や、テーブルに向かい合って将棋を興じている人たちがのんびり過ごしていました。公園内は彼らの私的領域であるかのような見えない境界を感じます。

 玉姫公園を時計回りに移動し、玉姫稲荷神社の西側にある簡易宿所「いなりや」へ向かいます。山谷のジブリハウスと呼ばれ激しく緑で覆われた宿所です。それは小さな森のようなたたずまいで、今でいう「環境に配慮した建築」を地でいっています。このいなりやの見学が今回の街歩きの中で一番盛り上がりました。「1泊1700円空室あり」という看板が出ていて現在も営業中です。向かいの駐車場の地面に座って日本酒を飲んでいた初老のおじさん2名が我々に話しかけてきました。そしておばさんも近づいてきて気軽に話しかけてきました。山谷はどこでも知らないもの同士が気軽に世間話できる雰囲気があります。おじさんたちが「いなりや」の屋外階段で2階に上がって見てきてもよいというので、途中まで階段を上がりましたが、木々が邪魔をしてそれ以上進むことができず引き返しました。それでも何とか参加者の1人だけ2階まで上がり、簡易な造りの露天風呂らしきものを見つけてきました。そこは秘境の中の露天風呂という感じです。街歩きで意外なものを発見するのは楽しいものです。


撮影:布野修司

 その後、17時過ぎに街歩きを一旦終了し、有志で懇親会を行うために飲み屋を探しました。通りはそれほどひと通りが多くないのに、数少ない飲み屋はどこもすでに客でいっぱいで、10人以上の団体が入店できる余地などありませんでした。特にいろは会商店街にある大衆酒場「追分」ではすでに地元のおじさんたちが飲んでいて、山谷感があふれていました。商店街はシャッター通りになり昔の活気はないものの、周辺の簡易宿所は満室も多く、飲み屋にはそこそこ客が入っています。

 現在、山谷は街の商店街のシンボルのアーケードがなくなり、周辺の建物は部分的に建て替えが進んでいます。活気ある寄せ場だった頃の山谷の風景は徐々に薄れ、静かな住宅街へと姿を変えていくようです。日中、道端でのんびりと談笑するおじさんたちからは、昔のような勢いや住人同士の強い関係性は感じません。ただ山谷にはそこに住む人々の独特のライフスタイルがあり、誰にでも気軽に話しかける雰囲気から、外部の人をも受容するゆるやかなコミュニティがあるように感じました。昭和の高度経済成長期にあった山谷エリアの激しい境界は現在ゆるやかな境界へと変化しているようです。

次回の街歩きは東陽町を予定しています。お楽しみに。

 


2019年5月30日

これからの低所得者住宅のあり方

ー はじめに ー

 以前からアメリカ、特にロサンゼルスの低中所得者住宅の研究をしています。世界では所得の二極化が進むなか、アメリカは早くから貧困問題に取り組んできました。近年は低中所得者住宅であるアフォーダブル住宅不足が表面化し、アメリカ連邦政府や市はアフォーダブル住宅を増やす努力を行ってきましたが、新規建設する際は周辺住民からの反対が多く、なかなかアフォーダブル住戸数が増えない状況にありました。特に従来の低所得者用アフォーダブル住宅はコストを抑える必要性から質の良くないものが多く、周辺環境も悪化しやすいため住戸数を増やすことが難しいからです。 そんな状況のなか、近年低所得者用住宅において従来とは異なる傾向がみられるようになりました。一見低所得者用とは見えない外観で建設されたアフォーダブル住宅が増えてきているのです。 ここではアメリカロサンゼルス市を中心に魅力的な低所得者用アフォーダブル住宅を紹介していきます。


2019年5月30日

Vol 1. 陸のコンテナ船のようなプレファブ集合住宅
Star Apartments @Skid Row in Downtown LA


Star Apartments@Skid Row

 このスターアパートメントはダウンタウンロサンゼルスの東側、セントラルイースト(通称スキッド・ロウ)地区にあります。近年様々な大型開発が進み、おしゃれな街へと変貌しているダウンタウンの中で、スキッド・ロウは他の地区とは一線を画する場所です。そこに一歩足を踏み入れれば、ゴミが散らかる歩道にテントが連なり、あてもなく人々が徘徊する光景が見られます。ホームレスや貧困、薬物依存や精神障害など、様々な生活困窮者の生活の場となっています。そして、他のエリアから行き場のない生活困難者が放り出される場所としても有名です。

 そんなスキッド・ロウで、人々の生活支援を行う団体が活動しています。その中で、安全で健康に暮らせる住まいの提供や生活支援を行う非営利団体、スキッド・ロー・ハウジング・トラスト(以下SRHT)がホームレスの人々のための新しいタイプの集合住宅を作りました。

 このアパートメントはまずその大胆な建物のあり方が従来の低所得者住宅と大きく異なります。コンクリート2階建てのスーパーストラクチャーで支えられているプレファブ4階建て部分に、単身者用の住居が102室入っています。プレファブユニットが積み上ったその姿はまさに陸のコンテナ船といった様相です。また1階には、ロサンゼルス郡衛生局(以下DHS)の本部やDHSが運営する病院が入り、2階にはコミュニティキッチン、アートルーム、ライブラリー、コンピューターラボなどを備えたヘルスウェルネスセンターが入っています。その屋外には、ランニングやウォーキングのできるトラックやバスケットコート、ガーデンもあり、住人のための付帯施設も充実しています。


Star Apartments@Skid Row

 そしてアパートの住人や周辺住民に良い影響を与えることを目的としているため、限りあるコストの中でもプランやデザインを重視した計画となっています。コスト節約で工事期間を短縮するために既存の建物にプレファブユニットを乗せ、小さな村のように建物内を上下左右に行き来できるプラン等、生き生きとして親しみのあるコミュニティを作るための工夫が箇所箇所でなされています。混沌とした外界から避難でき、まるで楽園のような自分たちためだけの特別な居場所を持ったように感じられます。

 住人たちの多くはかつてホームレスだった人々です。今も貧困、心や身体に障害、薬物やアルコール依存と戦っています。そのような人々に一時的な保護施設や寒々しい倉庫のような住まいではない、より良く生きるための生活の場をデザイン力で提供しようとするよい事例だと思います。

Star Apartments
240 E. 6th St. Los Angeles, Ca 90013
Star Apartmentsの詳細はこちら


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